市長コラム「雑記帳」
伊藤市長のコラム「雑記帳」は、市報こまがねに毎月掲載しています。
令和5年6月号

頭上に淡く広がるフジ
ラジオとの付き合いは中学生の頃からだ。眠気と戦い、深夜放送に耳を傾けた。エアチェックという言葉はもはや死語だが、FM放送は新たな音楽を知る貴重なツールだった。
重宝するのは朝。ラジオならニュースを聞き新聞を読み、支度もできる。子どもたちもお気に入りの番組があり、DJになると言っていた頃もあった。音楽番組とともに始める休日は心地よさが増す。
スマホなどのアプリで聞けるようになり、ラジオ人気が盛り返したという。深夜放送は今も旬の芸人やタレントが競う場となっている。動画があふれる時代に音だけのメディアは生き残った。
飲み込まれない距離感がいいのだろう。貸すのは耳だけ、あとは個人の自由だ。それぞれのスタイルと共存するツールは想像の世界を広げる入り口でもある。
令和5年5月号

美しく花を咲かせるコブシ
卒業や入学、転勤、退職など春は節目を刻む季節。さまざまな記念写真を撮った方も多いはずだ。今やスマホがあれば動画まで簡単に操れる時代となった。
新聞記者を始めた1980年代はフィルムカメラだった。難関は撮影後。フィルムを現像液に漬けネガに。引き伸ばし機にセットし印画紙に焼き付け。さらに印画紙を薬液に漬け、ようやく画像が現れる。
ここが血の気が引く瞬間だ。ボケ、ブレ、真っ白に飛んでいる。薄明かりに浮かぶ画像は、掲載できるレベルに程遠い。体が固まり暗室から出られなくなったことが何度もあった。
そのカメラを長男が使うようになった。フィルムの味わいがいいと話し、アナログさが新鮮なのだろう。ただ、私は手に取る気にはなれない。シャッターに触れたら、また体が動かなくなりそうだ。
令和5年4月号

春の訪れを告げるスイセン
息子2人の弁当をつくっていた。家族で一番早起きだったし、記者から編集委員となり仕事に時間の余裕が生まれた頃、2人の中学、高校生活が始まったこともあった。
独身時代から料理はしていた。大した品でなくても素材を組み合わせるプロセスは想像力を刺激する。短時間で完成形から逆算し行う作業は、生活のリズムにもなった。
2人とも運動部だったので肉と量が評価ポイント。おにぎりなどの副食もつくり、2段の大型弁当箱と一緒に渡した。凝ったメニューを出せない料理人は満腹にさせることを目指した。
大学生になり弁当は卒業した。つながるツールが消えていくことは成長の証しではある。私には大きすぎる曲げわっぱの箱は、使い道が見つからないまま棚の隅で眠っている。
令和5年3月号

結氷した馬見塚公園の池
駅のホームに思い出がある人は多いだろう。地方と大都市を結ぶ路線ならば一層、さまざまな思いが行き交う。映画にも心に残るシーンが描かれてきた。
個人的ベストワンは「祭りの準備」だ。昭和30年代の高知県。脚本家を志す男性が古里から東京へ旅立つ。ホームで原田芳雄が「バンザイ」と何度も叫ぶ姿は悲しみが漂い、保証のない未来へ向かう不安をかきたてた。
最近観た「マイブロークンマリコ」は対照的だ。親友の遺骨と旅に出た女性が海辺のまちから都会へ戻る。知り合った男性が亡き人と生きる大事さを諭す。しかし、女性は無視するかのように電車に乗ると、力強く駅弁をかきこんでみせる。
ホームは、その先の世界への入り口だ。ただ、見通しはきかない。この春も、多くの人がそれぞれの思いを抱いて立つのだろう。
令和5年2月号

静かに時が流れる馬見塚公園
「孤独のグルメ」のファンだ。テレビ化前の漫画も含めると、20年余りの付き合い。大衆店でおじさんが一人で食事をする。それだけの物語に、なぜひかれるのだろうか。
若者には「ボッチ飯」と嫌われるスタイル。ただ、異なるのは一人であることに価値を見出した点だ。なぜ、この店で、この料理を選ぶのか。その味を、どう評価するか。自分の尺度だけで完結させる。
下した評価は胸の中だけに収め、人に勧めることはない。食事と真摯に向き合うのは自分だけ。だからこそ、腹を満たす以上の意味を探そうという思いが膨らんでいき、作品の妙味を生むのだろう。
多様性はそれぞれの思いを尊重し合うことから生まれる。その前提は確固たる個人だ。一人で食事を楽しむだけなのに、そんな思いにつなげることは大げさ過ぎるだろうか。
令和5年1月号

澄んだ空気に揺れるススキ
商店にはシャッターが降り、歩く人もまばら。音楽は聞こえない。40年ほど前の学生時代に暮らしていた東京・吉祥寺。正月三が日は喧騒が消え、しんとした空気に包まれていた。
当時、商店は大みそかから初売りまで休み。コンビニは誕生以前で、開いていたのは牛丼店ぐらい。作り置きのマトンカレーばかりを食べていたことを思い出す。
転機はバブルだった。「24時間戦えますか」のCMの通り、全てのシーンはビジネスになった。元日も光や音楽に包まれ、都市は眠ることをやめてしまった。
11月訪ねた東京・汐留で違和感があった。昼時の人は少なく、閉じた店も目立つ。うんざりだった人混みが薄れた気がしたのだ。
コロナ禍は暮らしを変え、地方への関心も高めた。背後に都市の蓄積疲労があるのかもしれない。ならば、駒ヶ根市に必要な魅力は浮かび上がってくる
令和4年12月号

晩秋を彩るイチョウ
階段式に並ぶ机の先、すり鉢の底のような所に教壇が見える。学生たちのざわめきの中、担当教授に促され降りて行く。講義直前の大教室。そう、こんな感じ。38年ぶりの母校・中央大。一瞬で学生時代とつながった。
卒業生の市長が交代で行う講座の講師として10月、教壇に立った。記者時代、他大学の講義は何度かあったが、母校の空気は違う。学生たちの中に、居るはずのない当時の友人を探してしまう。
テーマは情報の非対称性とした。行政の内と外では情報量に差がある。行政に携わる者は、その差を踏まえ説明や理解を得る努力を重ねないと独善に陥る。記者出身の市長として感じたことを話すと、100分の時間はあっという間に過ぎた。
漠然とした考えをまとめる効率的な方法は、人に話すことだ。反応をみて修正を加え、否定されたら原因を探す。5年かかって卒業した母校への訪問は、思考を磨くための手掛かりを教えてくれた。
令和4年11月号

色鮮やかなヒャクニチソウ
大きな声では言えないが、ピアノを時折弾いている。聞いてもらえるほどの腕ではないので、自宅限定だ。ただ、鍵盤をたどる時に余計なことを考えないので、絶好の気分転換になっている。
始めたのは保育園。亡くなった母は私がやりたいと言ったからと話していたが、記憶にはない。中学まで続けたが、残念ながら上達しなかった。原因は一つ。練習しなかったためだ。発表会は逃げ出したかった。
しかし、息子たちが習い始めると、弾きたい気持ちが頭をもたげた。奮発して購入したピアノも目の前にある。40歳の再スタートだったが、意外にも指が動いた。易しそうな楽譜を2冊、3冊と買い、練習すると少しずつレパートリーが増える。
無論、習っていた当時のレベルには程遠い。ただ、誰とも競わない演奏をしていると、不思議な解放感に包まれる。少々間違えても、弾き終えれば気分が上がる。プロにはない特権がアマチュアにはある。
令和4年10月号

秋風に揺れる稲穂
「禁じられた遊び」という映画があった。小学生の頃、駒ヶ根工業高校の文化祭で見たのが最初だった。哀愁漂うギターの調べとともに、記憶しておられる方も多いと思う。
舞台は第二次大戦下のフランス。ドイツ軍の侵攻で両親を失った少女と、農家の少年が出会う。少女の犬を葬ったことをきっかけに、墓をつくり十字架を供える遊びに夢中になる。死の意味がよく分からない少女と、二人が集めたさまざまな十字架の映像が印象的だった。
その記憶とウクライナのニュースが重なった。手作りのライフルや防弾服を着た少年、少女が街道に立ち、行き交う軍事車両に敬礼をしている。励ましたいとの思いで始めたという。足元には空き瓶で作ったロケットランチャーもあった。
「悲しい遊びね」。インタビューに少年の母は答えた。1950年代の映画と、二一世紀の現実がひと続きとなってしまった世界。ニュース画面が曇って見えなくなった。
令和4年9月号

色とりどりのポーチュラカ
今回は硬い話。7月、JRローカル線について国交省の有識者会議が提言をまとめた。1キロあたりの1日平均乗客数が1千人未満などの路線は見直しをとの内容。共同通信社の後輩に感想を求められた。
コロナ禍で在宅勤務が進み都市部の乗客は頭打ち。経営再建には、お荷物のローカル線を手放したい。そのためのお墨付きがほしい。そんな思惑が透ける。
鉄道の魅力はAからBへの大量輸送だ。ビジネスモデルが成立しない地方でバスなど代替手段の検討も必要だろう。ただ、別の重要な役割もある。全国を結ぶネットワークだ。
必要な場所へ行ける「交通権」を問う訴訟があった。原告は公共インフラ・鉄道の役割だと主張した。当時は突飛(とっぴ)とされたが、ネットワークの意義を突いた。とすれば、国民全体で負担・維持するやり方もある。地域問題に矮小化(わいしょうか)しては解決策が見えない。
令和4年8月号

花壇を飾るマリーゴールド
6月末、久しぶりに大阪市を訪ねた。繁華街・ミナミの警察担当を振り出しに記者の基本を学んだまち。日々起こる事件・事故に右往左往する中で、関西人のパワーに圧倒されたことを思いだした。
その一つが言葉だった。標準語では取材先と距離が縮まらない。やむなく怪しげな関西弁を使うが、話している自分が違うなあと思うほどの出来。しかも、大阪や京都、和歌山と地域ごとに違う。
記事も会話は関西弁で書いた。大阪人が「だよね」と話すことはありえない。それだけで誤報だと言われてしまう。ネイティブスピーカーでない私にとってなかなかの壁だった。
他の地域では特別な狙いがない限り、分かりやすいように方言を標準語に変えて書くのが一般的。強烈なプライドは、漫才ブームとともに全国を席巻した。誇りを持つ大事さをまさに雄弁に伝えている。
令和4年7月号

たくましく鮮やかに咲く花
「B級とは違う」。地方の大衆食に光を当て、ご当地グルメのブームを起こしたWさんは話した。コンテストに数万人が訪れ、優勝すれば全国の注目を集めた。ただ、格下の料理のように「B級」と言われることには反発した。
保険代理店のWさんは飲食業とは無縁。仲間と話すうち、小さな頃から食べている地元の焼きそばは独特だと気付いた。人気を高め地域おこしにつなげようと取り組みを始めた。
各店を調べガイドブックにまとめる「Gメン」や九州の焼うどんと競う「天下分け麺の戦い」。秀逸なアイデアを繰り出し、各地の団体と連携も深め全国規模の活動に育てた。
「親しまれていることが価値」であり、その味は地域の誇りそのものだ。「B級」のはずがない。Wさんは亡くなったが、信念は今も心に残る。まちづくりは覚悟があってこそと、あらためて思う。
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更新日:2023年05月20日