市長コラム「雑記帳」
伊藤市長のコラム「雑記帳」は、市報こまがねに毎月掲載しています。
令和6年11月号
秋風になびくススキ
令和6年10月号
頂を目指す山道
8月、高烏谷山に登った。木立のおかげで日差しは遮られ、時折、吹く風が心地良い。さあと勢いづいて、山道に踏み入れた。しかし、次第に息が上がり始め汗も一気に噴き出す。
「なめてました」。降りてきた男性が話し「こんなにきついとは」と笑う。ここから頂上までを尋ねると「あと1時間」という。聞かなければ良かったとの後悔が疲労を濃くする。
まち歩きは好きだ。クルマや電車ではなく自分の足で動くと、入ってくる情報が違う。においや温度・湿度、風を含めて土地を丸ごと感じることができる。スマホの案内があれば、どこまでも行ける気がする。
しかし、垂直移動はきつい。歩くとは足を順番に動かす作業だと、しみじみ思う。ようやく着いた山頂から伊那谷の眺望が開けた。この上ないご褒美ではある。ただ、下りが待っている。さて。
令和6年9月号
力強く咲くマリーゴールド
令和6年8月号
夏を彩るアジサイ
この季節になると、亡くなった祖母や母は、畑でもいできたキュウリやキャベツと、塩イカを和えた料理を作った。旬を迎えた夏野菜とよく合う、伊那谷ならではの味だ。鰹節やゴマを加えるなど、それぞれの家によって流儀があるのではと思う。
東京で働いていた頃、帰省すると、塩イカをかなりの頻度で買っていた。保存食なので持ち運びに問題はない。母たちがしたように作ってみたが、野菜が違うのだろう。なかなか、あの味にはならなかった。しかし、刺身にできる新鮮なイカとは違うジャンルの食べ物として楽しんでいた。
新宿に伊那谷の料理を出す居酒屋があった。メニューには、馬刺しなどと並んで塩イカとキュウリの和え物が。さあと頼んでみたが、何か物足りない。家庭料理につながる思い出。これだけは店で出せないのだろう。
令和6年7月号
令和6年6月号
小さく色鮮やかに咲くムスカリ
今年も本屋大賞が発表された。書店員が最も売りたい本を投票で決める文学賞。2004年に創設され、小売り現場が主役となるユニークさが注目を集め、受賞式がニュースになるまでに定着した。
今回の大賞は「成瀬は天下を取りにいく」。主人公の女の子が強烈だ。近くの百貨店が閉店すると知り、夏休み中、カウントダウン看板の横に立ったり、漫才に目覚めてM1グランプリへ出たりする。
魅かれるのは、周囲が戸惑う中、主人公は真っすぐに立ち続けていることだ。言い訳をせずブレずに進む姿は天下取りにふさわしい。
この大賞を20年続けた立役者は大学の同級生。あの主人公の生き方は、在学中から本づくりに取り組んできた彼と重なる。「素晴らしい本に出会えた」。メッセージを送ると「おお、ありがとう」と、うれしい返信があった。
令和6年5月号
凛と咲くスイセン
「意外に遠いね」。昨年の冬、駒ヶ根市を訪れた東京・新橋の居酒屋の主人は笑った。思い立って奥さんと車で出発。「諏訪の向こうかな」程度の土地勘で、カーナビなしの古いセダンを走らせた。
記者時代、店構えが気に入り通った。カウンターに座り並んだ総菜を頼む。外れのない味。常連ばかりの店内は遠慮ない会話で満ちる。ゆったりと過ぎる時間が仕事を忘れリセットする機会をくれた。
「市長をしているまちを見たくて」と主人は話す。「すごくきれいだ」と、中央アルプスを見上げ、奥さんとうなずく。土産のつくだ煮を私に押し付けると「帰るね」と腰を上げた。
「あと1年半かな」。別れ際につぶやいた。70代の2人に子どもはない。体力と相談して閉店を決めたという。「来られて良かった」。握った手のぬくもりは長く残った。
令和6年4月号
冬化粧をした駒ヶ根高原
春になると思い出す歌がいくつかある。共通項はCMソング。1970~80年代に盛んだった、新入学や新入社向け商品のキャンペーンで流れていた。
腕時計や学生服、学習机などがひしめく中、注目の的は化粧品だった。モデルに起用されるとスターへの道が開かれ、コラボした曲も確実にヒットした。
当時は大学や企業での新生活が化粧を始めるきっかけとされた。駆け出し記者時代、高校卒業生を対象にした、お化粧教室を取材した記憶もある。業界にとって春は需要が膨らむ重要な季節だった。
しかし、性別と化粧を関連付けた時代は遠い。化粧品を手に取る時期もそれぞれとなれば、一斉キャンペーンの意味は薄れる。社会の変化とともに季節の風物詩も移ろっていく。
令和6年3月号
多様な色が華やかさを高め合う
「地の人」という言葉がある。そのまちで生まれ育った人を指す。同じ背景を共有することが安心感を生む。ただ、どの程度の歳月を過ごせば、ふさわしいのかは実は曖昧だ。
一方でボーダーレス社会は、そうした線引きの意味そのものを失わせる。ラグビー日本代表は、さまざまな経歴の選手が集まりぶつかり合うことで、力を発揮し感動を呼んだ。
東京が「三代続いたら江戸っ子」の感覚のままだったら、発展はなかっただろう。担い手の多くは地方の俊才であり、競い合って日本全体を引っ張る場になった。
「均質な粒の地層は弱い」。国交省の専門家は指摘する。つながる力が弱く液状化を招くという。多彩な粒がかみ合えば揺れにも負けない。違いを認め合うこと。勇気はいるが楽しみも増すはずだ。
令和6年2月号
春をじっと待つ木々
冷え込んだ朝、庭に立つと独特の香りが鼻を突く。同じ場所なのに他の季節とは明らかに違う。乾燥し澄んだ空気が、冬ならではの思い出を紡ぎ出す。
五感を通した記憶は時に圧倒的な力を持つ。とりわけ音や香りは、当時の感情まで一気に呼び戻すことがある。普段は意識しなくとも、深い所に根をおろしているためかもしれない。
3年余り続いたコロナ禍。「4年生なのに、初めましてなんです」。駒ヶ根市で合宿した大学生は話した。ウェブ授業ばかりで同級生に会う機会がなかったという。同じ場所で過ごすことすらできない日々が昨日まであった。
さまざまな行事が始まり、日常が戻りつつある。しかし、ぽっかりと空いた穴はあちこちに残る。埋めるのか、飛び越えるのか。100年に1度の出来事はなお課題を残している。
令和6年1月号
正月飾りの縁起物 ナンテン
元日、朝一番の行事は「歯固め」だ。その年の吉方を向き、神棚にあげておいた落花生やコメ、栗を口へ。これで1年間、元気で食べられると、高遠の祖父母から教えられた。
一般的な行事なのか分からない。ただ、終えると気持ちは整った。効果はともかく、長く続く習慣には理由がある。目的と行動、その影響。そうしたサイクルに意味があるから残る。
年末年始は1年の大きな節目。それぞれの地域や家庭で欠かせない行事は多い。世代を超えて受け継がれるのか、消えてしまうのか。その分かれ道は、寄せる思いの強さだろう。
父や母、地域の人々。目に見える存在だけでなく、包み込む空気や培ってきた歴史。さまざまな巡り合わせの中で人は生きている。年の終わりと初め。あらためて感じる時だ。
令和5年12月号
秋色に染まりゆくイチョウ
「市民音楽祭に行きますか」。街を歩いていると、男の子が声をかけてきた。隣のお母さんが「市長さんに聞きたいというんです」と付け加える。メンバーである、金管バンドの演奏を聴いてほしいという。「もちろん伺います」と答えると、はにかんだ笑顔が浮かんだ。
保育園から中学までピアノを習っていたことは本欄で書いた。練習不足のため上達せず、高校以降は離れてしまった。しかし、子どもが生まれ、ともに始めると楽しさに気付いた。
自身の指から生まれるハーモニーは別次元の空間を紡ぐ。そこに多くの人を招き、酔わせることができる腕があればプロになれる。しかし、趣味でも自身には特別な場だ。
「楽器って楽しいよね」その子に話した。彼が還暦を過ぎた頃も演奏を続けていたら。そんな未来を想像すると、楽しくなった。
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更新日:2024年10月20日