市長コラム「雑記帳」
伊藤市長のコラム「雑記帳」は、市報こまがねに毎月掲載しています。
令和5年10月号

夏空に映えるサルスベリ
8月、父の3回忌を行った。身内が集まり、お寺で読経と焼香、墓参りをして終わった。コロナ禍を経て暮らしは大きく変わり、冠婚葬祭も見直されている。
とりわけ葬儀は簡略化が進んだ。感染防止から精進落としは自粛され、身内のみの式が主流に。参列者は焼香のみというケースが増え、上伊那独特のそうめんを食べる機会も減った。
大学生の頃、祖父が亡くなった。感情が揺さぶられたのは、かまどで精進落としの天ぷらを揚げている時だった。降る雪が祖父から渡されたバトンのように思えたのだ。葬儀では流れなかった涙があふれた。
セレモニーは時とともに形を変える。ただ、人を思う気持ちは揺らがない。さまざまなやり方で、それぞれに伝えていくのだろう。
令和5年9月号

夏風に揺れるマリーゴールド
喉を裏からつつかれたような読後感。そんな世界へ、小田雅久仁氏の短編集「禍」は誘う。奇想天外な視点を基に日常の光景が次第に異形の沼へ変わる。夏の暑さを忘れて読み進んだ。
作家の個性は文体に現れる。会釈なしに踏み込む小田氏の書きぶりは読む人の肩をつかんで揺さぶり、特異な筋立てへの戸惑いもねじ伏せてしまう。
大学生の頃は村上春樹氏に憧れた。華麗な比喩と乾いた文章。初めて見る世界だった。高村薫氏にも魅せられた。1ミリずつ描写していくかのような緻密さは説得力を強め、緊迫感を生んだ。
記者の文章のお手本は夏目漱石だった。接続詞や形容詞のない簡潔な短文は理想形だ。
文は筆者の存在をかけて紡ぎ出されるからこそ力を持つ。AIがつくる訳知り文とは違うと思いたい。
令和5年8月号

初夏の吉瀬ダム
高遠で暮らしていた祖父は7人きょうだいで、長男だった。2番目の弟は第2次大戦が始まる以前に、フィリピンへ渡り、現在でいうスーパーマーケットを経営していたという。
白黒写真に残る麻のスーツ姿は、なかなかおしゃれだ。きょうだいの子どもには、小学校入学祝いに革製カバンを贈った。当時は布製ばかりだったので、とてもうれしかったと母から聞いた。
大戦時、大叔父は現地で召集され、戦死した。祖父や母は既に亡く、当時を知る縁者も少なくなった。何を目指して海を渡り、どんな暮らしをしていたのか。今では知る手立てに乏しい。
時は想像を超える速さで過ぎていく。「話しておけば」「聞いておけば」との思いは置かれたまま。終戦記念日を前に、あらためて伝えることの大切さを感じる。
令和5年7月号

麦秋を迎えたほ場
再放送中の朝ドラ「あまちゃん」にはまっている。10年を経ても色あせない魅力の一つは群像劇の見事さだ。それぞれにスピンオフの物語が描けるほど、登場人物の造形は深い。
最大の魅力は新たな生き方の提示だ。岩手へ移住した東京出身の主人公は再び上京、アイドルへ挑む。しかし、軌道に乗らず戻って来る。これまでなら「失意の帰郷」だろう。
しかし、物語は岩手での再出発を「成功」と描く。地元を出られなかった親友と再び組み、ローカルでの興行に多くの人を集めてみせる。中央と地方の対比を吹き飛ばすのだ。
「ここが一番だと確認するために行く」岩手を出る祖父や先輩は誇らしげに言う。小津安二郎作品の笠智衆とは違う思いがにじむ。自分や住むまちを愛すること。それが全ての出発点なのだろう。
令和5年6月号

頭上に淡く広がるフジ
ラジオとの付き合いは中学生の頃からだ。眠気と戦い、深夜放送に耳を傾けた。エアチェックという言葉はもはや死語だが、FM放送は新たな音楽を知る貴重なツールだった。
重宝するのは朝。ラジオならニュースを聞き新聞を読み、支度もできる。子どもたちもお気に入りの番組があり、DJになると言っていた頃もあった。音楽番組とともに始める休日は心地よさが増す。
スマホなどのアプリで聞けるようになり、ラジオ人気が盛り返したという。深夜放送は今も旬の芸人やタレントが競う場となっている。動画があふれる時代に音だけのメディアは生き残った。
飲み込まれない距離感がいいのだろう。貸すのは耳だけ、あとは個人の自由だ。それぞれのスタイルと共存するツールは想像の世界を広げる入り口でもある。
令和5年5月号

美しく花を咲かせるコブシ
卒業や入学、転勤、退職など春は節目を刻む季節。さまざまな記念写真を撮った方も多いはずだ。今やスマホがあれば動画まで簡単に操れる時代となった。
新聞記者を始めた1980年代はフィルムカメラだった。難関は撮影後。フィルムを現像液に漬けネガに。引き伸ばし機にセットし印画紙に焼き付け。さらに印画紙を薬液に漬け、ようやく画像が現れる。
ここが血の気が引く瞬間だ。ボケ、ブレ、真っ白に飛んでいる。薄明かりに浮かぶ画像は、掲載できるレベルに程遠い。体が固まり暗室から出られなくなったことが何度もあった。
そのカメラを長男が使うようになった。フィルムの味わいがいいと話し、アナログさが新鮮なのだろう。ただ、私は手に取る気にはなれない。シャッターに触れたら、また体が動かなくなりそうだ。
令和5年4月号

春の訪れを告げるスイセン
息子2人の弁当をつくっていた。家族で一番早起きだったし、記者から編集委員となり仕事に時間の余裕が生まれた頃、2人の中学、高校生活が始まったこともあった。
独身時代から料理はしていた。大した品でなくても素材を組み合わせるプロセスは想像力を刺激する。短時間で完成形から逆算し行う作業は、生活のリズムにもなった。
2人とも運動部だったので肉と量が評価ポイント。おにぎりなどの副食もつくり、2段の大型弁当箱と一緒に渡した。凝ったメニューを出せない料理人は満腹にさせることを目指した。
大学生になり弁当は卒業した。つながるツールが消えていくことは成長の証しではある。私には大きすぎる曲げわっぱの箱は、使い道が見つからないまま棚の隅で眠っている。
令和5年3月号

結氷した馬見塚公園の池
駅のホームに思い出がある人は多いだろう。地方と大都市を結ぶ路線ならば一層、さまざまな思いが行き交う。映画にも心に残るシーンが描かれてきた。
個人的ベストワンは「祭りの準備」だ。昭和30年代の高知県。脚本家を志す男性が古里から東京へ旅立つ。ホームで原田芳雄が「バンザイ」と何度も叫ぶ姿は悲しみが漂い、保証のない未来へ向かう不安をかきたてた。
最近観た「マイブロークンマリコ」は対照的だ。親友の遺骨と旅に出た女性が海辺のまちから都会へ戻る。知り合った男性が亡き人と生きる大事さを諭す。しかし、女性は無視するかのように電車に乗ると、力強く駅弁をかきこんでみせる。
ホームは、その先の世界への入り口だ。ただ、見通しはきかない。この春も、多くの人がそれぞれの思いを抱いて立つのだろう。
令和5年2月号

静かに時が流れる馬見塚公園
「孤独のグルメ」のファンだ。テレビ化前の漫画も含めると、20年余りの付き合い。大衆店でおじさんが一人で食事をする。それだけの物語に、なぜひかれるのだろうか。
若者には「ボッチ飯」と嫌われるスタイル。ただ、異なるのは一人であることに価値を見出した点だ。なぜ、この店で、この料理を選ぶのか。その味を、どう評価するか。自分の尺度だけで完結させる。
下した評価は胸の中だけに収め、人に勧めることはない。食事と真摯に向き合うのは自分だけ。だからこそ、腹を満たす以上の意味を探そうという思いが膨らんでいき、作品の妙味を生むのだろう。
多様性はそれぞれの思いを尊重し合うことから生まれる。その前提は確固たる個人だ。一人で食事を楽しむだけなのに、そんな思いにつなげることは大げさ過ぎるだろうか。
令和5年1月号

澄んだ空気に揺れるススキ
商店にはシャッターが降り、歩く人もまばら。音楽は聞こえない。40年ほど前の学生時代に暮らしていた東京・吉祥寺。正月三が日は喧騒が消え、しんとした空気に包まれていた。
当時、商店は大みそかから初売りまで休み。コンビニは誕生以前で、開いていたのは牛丼店ぐらい。作り置きのマトンカレーばかりを食べていたことを思い出す。
転機はバブルだった。「24時間戦えますか」のCMの通り、全てのシーンはビジネスになった。元日も光や音楽に包まれ、都市は眠ることをやめてしまった。
11月訪ねた東京・汐留で違和感があった。昼時の人は少なく、閉じた店も目立つ。うんざりだった人混みが薄れた気がしたのだ。
コロナ禍は暮らしを変え、地方への関心も高めた。背後に都市の蓄積疲労があるのかもしれない。ならば、駒ヶ根市に必要な魅力は浮かび上がってくる
令和4年12月号

晩秋を彩るイチョウ
階段式に並ぶ机の先、すり鉢の底のような所に教壇が見える。学生たちのざわめきの中、担当教授に促され降りて行く。講義直前の大教室。そう、こんな感じ。38年ぶりの母校・中央大。一瞬で学生時代とつながった。
卒業生の市長が交代で行う講座の講師として10月、教壇に立った。記者時代、他大学の講義は何度かあったが、母校の空気は違う。学生たちの中に、居るはずのない当時の友人を探してしまう。
テーマは情報の非対称性とした。行政の内と外では情報量に差がある。行政に携わる者は、その差を踏まえ説明や理解を得る努力を重ねないと独善に陥る。記者出身の市長として感じたことを話すと、100分の時間はあっという間に過ぎた。
漠然とした考えをまとめる効率的な方法は、人に話すことだ。反応をみて修正を加え、否定されたら原因を探す。5年かかって卒業した母校への訪問は、思考を磨くための手掛かりを教えてくれた。
令和4年11月号

色鮮やかなヒャクニチソウ
大きな声では言えないが、ピアノを時折弾いている。聞いてもらえるほどの腕ではないので、自宅限定だ。ただ、鍵盤をたどる時に余計なことを考えないので、絶好の気分転換になっている。
始めたのは保育園。亡くなった母は私がやりたいと言ったからと話していたが、記憶にはない。中学まで続けたが、残念ながら上達しなかった。原因は一つ。練習しなかったためだ。発表会は逃げ出したかった。
しかし、息子たちが習い始めると、弾きたい気持ちが頭をもたげた。奮発して購入したピアノも目の前にある。40歳の再スタートだったが、意外にも指が動いた。易しそうな楽譜を2冊、3冊と買い、練習すると少しずつレパートリーが増える。
無論、習っていた当時のレベルには程遠い。ただ、誰とも競わない演奏をしていると、不思議な解放感に包まれる。少々間違えても、弾き終えれば気分が上がる。プロにはない特権がアマチュアにはある。
- この記事に関するお問い合わせ先
更新日:2023年09月20日